時間がない/知る/運転

やりたいことの多さに対して、圧倒的に時間が足りない。

やりたいこと。ドラマ見たい。映画見たい。本読みたい。ラジオ聴きたい。資格の勉強したい。ブログ読みたい。ご飯食べたい。お酒飲みたい。じっくりスキンケアしたい。のんびりお風呂に入りたい。ゲームしたい。

これを、本当は毎日、仕事が終わってから寝るまでに全部やりたい。

仕事が終わってからまっすぐ帰ったとして、家に着くのが19時。7時間の睡眠時間を確保するために、就寝するのが23時過ぎ。よって与えられた時間は4時間ちょっと。たったそれっぽっちの時間で上記のすべてを片付けるなど到底不可能なわけで。

せいぜい昨日のドラマ見ながらご飯食べて、お風呂に入って、勉強するかゲームするか、それぐらいであっという間に一日の終わりが来てしまう。就労時間は変わらないまま一日が30時間ぐらいになるか、毎日午前中だけ働いて今と変わらないお給料がもらえる仕事に就くしか解決法がない。つまり不可能。これが社会人の辛いところですな。

学生はお金はないけど時間はある、社会人はお金はあるけど時間がないってよく言うけれど、私の学生時間はお金がないのはもちろん時間がたくさんあったわけでもなかった。週3でサークルに行って、週3でバイトに行って、もちろん大学の講義もあって、おまけに学部に友達がいないので効率よく大学をサボることもできなかった。

思えば学生時代から今までずっと時間に追われている。

こうなるとなんなら老後が楽しみになってくる。働けるうちにたくさん貯金して、老後は海外旅行に行きまくってやるんだ。待ってろ私の老後。

 

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「知る」ということはとても大切なことだと思う。私は、知らず知らずのうちに誰かを傷つけないために、知らないことを知りたいと思う。

知る。

私が何不自由ない生活を送っている一方で、どんな不自由を抱えている人がいるのか。行き過ぎに思えるほど豊かで便利になった生活の裏側で、何が犠牲になったのか。遠い海の向こうで、どういう人が暮らしていて、何が起こっているのか。

知識があれば、何ができるのかを考えることができる。苦しみを抱える人たちに気付かずに踏みつける、そんな酷いことに無意識のうちに加担するのを防ぐことができる。

この世の中について、一生をかけてもすべて知ることなどできないのだろうけれど、できる限りたくさんのことを知りたい。幸いこの時代の日本に暮らしている私は、ネットの情報や本に囲まれた生活を送っていて、欲しい情報にはいつでもアクセスできる環境にある。

知ることは、時に苦しい。今まで目に入らなかったものが見えるようになって、そこに映る誰かの痛みに気付くことによって、辛いと思いこともあるかもしれない。でもきっと、そうやって何かに気付くことには意味があるのだと思う。知ることから逃げない人間でいたい。

先週のMIU404もそう思わされる話だった。便利な生活の裏で、不当なやり方で働かされている人がいる。そういった人たちを犠牲にして自分は暮らしている。そのことに気付くのは結構辛いものがあるのだけれど、気付けて良かったと思う。解決のために何ができるのか考えること、あるいは何もできなかったとしても、問題の存在を認めていくことに意味がある。

 

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車間距離はやり過ぎなくらいに空けるようにしている。運転能力、特に反射神経には自信がないので、自分は必ずそうすべきだという信念の下、そうしている。

たまにめちゃくちゃのんびりした車に出会う。制限速度40キロの道を、2,30キロで走っているようなちょっとのんびり屋さんの車。私の住む地域は運転が荒い人が多いので、私の母や父も含め、こういう車の後ろを走るときは後ろに近くついて走る。あれは本当にやめた方がいい。急かしているのか、待てないのか。これだけ煽り運転が社会問題化している時代に、少しでもそれを疑われるような運転スタイルはやめておいた方が身のためだ。

ともかく、私はそういう場合もばっちり車間距離を開ける。「あののんびり屋さんを怖がらせてはいけない」みたいな気持ちがある。「ほーら、全然イラついてませんよ。車間距離もこーんなに空いてる。だから安心して自分のペースで走りや~」みたいな良く分からない親心みたいな何かを胸に、30キロで走る。本当に車の運転ってのは人の性格が出るものだと思う。

あいみょん/ドラレコ/儀式

ブログのタイトルはフィーリングでつけている。

 

この頃は、ラジオをよく聴いている。ちょっと前にradikoプレミアムに登録したので、全国のラジオを聴ける。オールナイトニッポンを聴くことが多い。毎週聴いているのは星野源菅田将暉Creepy Nuts。この間オードリーを聴いてみたらやっぱり面白かった。今日の帰り道は先週の単発のあいみょんのANNを聴いていた。話し始めの「でね?」がすっごい可愛い。アルバムのタイトルには14文字のこだわりがあるらしい。青春のエキサイトメント、瞬間的シックスセンス。なるほど。

ラジオはいいぞ。何より手が塞がらない。イヤホンさえあればいいので満員電車に最適。地元のローカル線が毎朝激烈に混むのだけど、半ば無理やり顔の前のちっさいスペースでスマホや本を見ている人が多い。みんなラジオか音楽を聴けばいいのにと思う。目も疲れないしストレスフリー。

 

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ずっと稼働していなかったドライブレコーダーが復旧した。しばらくの間ずっと、画面に「SDカードを挿入してください」と表示されて録画が始まらないままだった。だから先日わざわざ家電量販店でマイクロSDカードを調達してきたのに、いざ挿すぞと思ってドラレコの側面を見たら既にカードが差さっていた。どうやら接触が悪かっただけらしい。1,000円ちょい損した。何はともあれこれで運転中の風景をハッキリクッキリ撮れるようになったので良しとしよう。

 

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知らない人のブログを読んで、「なんだか素敵」と思った時はそのままの勢いで読者登録をする。読者になるときの慣例として、そのブログのトップページに行き最近の投稿を2,3読んでみる。だいたいの場合は「やっぱり、なんだか素敵」となるので、星を1個ずつ残して、それから読者になって、そっと立ち去る。素敵なブログに出会ったときは、いつもこう。普段は意識せずに流れでやっていることだが、よくよく思い返せばなんだか儀式みたいだ。この儀式を執り行う機会に、できるだけ多く立ち会えたら幸せだなあと思う。ネットの海には素晴らしい読み物が数えきれないほど転がっている。

大人の階段のぼってる

ここ最近は、ゆったりとした毎日を過ごしているなあという感じがする。

8月に入ればだんだん仕事が忙しくなって、秋から年始にかけては繁忙期。それまでは本当に暇でやることを探すのが大変なぐらい。毎日定時で退社して、家に帰ってコンビニで買った好きなものを食べながらみたいドラマや映画を見て、ゲームをし、気が向けば美容や資格の勉強に精を出す日々。

先週からできるだけ毎日7時間ずつ寝るようにしている。そのおかげかは分からないが、肌の調子が良くなった気がする。ニキビ(この年になると吹き出物というのが適切なんだろうか)があまりできなくなった。ファンデーションを塗るのに使っていたブラシを洗ったおかげかもしれない。それか最近は入浴後のスキンケアをちょっと丁寧にするようになったせいか。今までどれだけ色々と適当だったんだ。

今期のドラマを見るのがとても楽しい。今期見ているのは、家政夫のナギサさん、ハケンの品格、アンサング・シンデレラ、MIU404。未満警察は脱落。ジャンルもバラバラでなかなか良いラインナップなのではないか。さっきアンサング・シンデレラの2話を見てまたもやすごく泣いた。病棟薬剤師が主人公の1話完結もので、毎話とある患者との関係にクローズアップして話が進むのだが、エンドロールでその患者の先の人生が描かれる構造。これがまた泣かせる。問題を解決して笑顔になれる道へ進んでいくのを見ていると、本当に良かったなあと思う。これ、話数が進んでいくとバッドエンドのパターンとかもあったりするのだろうか。怖いなあ。

そんな感じで4連休も過ごしている。意外と家にいるとご飯やお菓子を食べすぎるということもなく、多少飲酒量が増える以外には比較的健康に過ごしている。これまでは休日はフルに活用して何か有意義なことが成し遂げられないともったいなくて残念な思いをしていたのだが、最近は気持ちに余裕が出てきた。仕事に行かなくてよくてのんびりできるだけで休日って素晴らしいじゃないかと思うようになった。極端な話、一日中スマホを見て終わってもそれはそれでいい休日だと思える。余裕があれば勉強とか休日美容ができればより素晴らしい。それぐらいの感覚。

昨日は恋人と会った。金曜日に泊まって土曜日に解散するパターンがここ最近は多かったので、久しぶりに日中だけのデートだった。ランチをして買い物をしてお茶してというベーシックなデート。たまにはこういうのもいいなあと思う。

帰る前はファミレスでそれぞれの資格の勉強をした。「それ何の本?」とか「難しそう」とかたまにちょっかいを出しあって、そうかと思えば真面目に勉強に集中したりして。そうしていると、大学生の頃を思い出した。あの頃は毎週水曜日は私のバイトの時間まで一緒に大学付近のサイゼリヤで大学の勉強をしていた。私は法学の、彼は物理学の本を広げていた。今ではそれは簿記の本と情報なんとか士の本に変わったけれど、それ以外の空気感は何も変わっていなくて、なんだか懐かしくなった。あれだけ苦手だったブラックコーヒーも、いつの間にか飲めるようになったなあなんて思ったりして、私たち大人になったんだなあって。

明日からはまた仕事。天気は悪いけど頑張る。

映画みたいで、映画じゃない日常を

先週、髪を切った。

とは言っても、縮毛矯正のかけ直しついでに毛先を3センチ切った程度で、パッと見は何も変わっていない。自分ですら鏡を見ても何が変わったのかいまいち分からないぐらいだ。

その翌日、恋人と会った。恋人は開口一番「なんか髪形変わった?」と言った。私は驚いた。正直、彼のことを「他人のちょっとした変化に全然気づかない人」だと思っていた。「なんで分かったん!?」みたいな顔で見てしまった。

彼にとっては髪形が他人の印象を形作るうえでの要素として大きいのかもしれない。実際、2年前からきている服を「あれ、その服最近買った?」とよく言ってくる。髪形>メイク>服みたいな順番なのだろうか。

何はともあれ、誰かが自分のポジティブな変化に気付いてくれるというのは嬉しいものだ。私も他人のちょっとした変化に気付ける細やかな人間でありたい。

 

その日は、ラーメンを食べたりその辺をうろついたりした。ラーメンは美味しい。店の外で順番を待っていた時に、メニューに載っている写真を見てラーメンに乗っかっているピンク色の物体がかまぼこかお麩かの議論をした。店内に入ってラーメンが運ばれてきた。かまぼこだった。トッピング無料のクーポンで勝ち得た味玉とデフォルトでついているゆで卵が並んでスープに浮いていた。

 

実家暮らしと社員寮暮らしで行き場がないのでその辺のビジネスホテルに入った。まだ空には太陽が昇っていて、少し古ぼけた窓からは青い空が覗いていた。見る気もないニュース番組をテレビで流しながら、ベッドに仰向けになって窓から見える空を眺める。そうしていると、まだ私たちが大学生で、下宿していた彼の部屋に遊びに行っていた頃のことを思い出した。お互いに講義やバイトがない午後、彼の部屋で適当に作ったパスタやチャーハンを食べて、ゲームをして、まだ明るい中で眠る。そんな日常が、南ア高懐かしかった。今思えば、映画みたいな日々だったなあと思う。これが本当に映画なら、この大学生の恋人たちは、就職してからお互いすれ違う日々が続いて終わりに向かうのかもしれないが、現実では今のところ幸いそういった展開にはなっていない。このまま映画とは違う現実を私たちは生きていくんだなあと、ほんのり煙草の匂いが染みついた部屋の中で思った。

7/5~11に摂取したエンタメ

本、音楽、ドラマなどのエンターテインメントによって私の日々の生活は支えられているわけです。せっかくなので見たものや聴いたもの、できればそれに対するちょっとした感想でも残しておければ後々楽しいかもなあと思ったので、週ごとに記録してみることにする。今回はトライアルでひとまずやってみる。

 

〇本

・『たゆたえども沈まず』原田マハ幻冬舎文庫

 原田マハさんは大好きな作家さんのうちの一人。美術鑑賞が好きで耽美的な文体が好きな私にとって、これほどまでにハマる作家さんはいないと思う。いやむしろ、マハさんの作品を読んだおかげで芸術に興味を持ったのかもしれない。今となってはどちらが先か分からない。

 『たゆたえども沈まず』はもう少しで読み終わるところ。表紙に使われているのはご存じゴッホの「星月夜」。作中にこの絵画が登場するシーンはやはり感動する。『楽園のカンヴァス』の「夢」や『暗幕のゲルニカ』の「ゲルニカ」もそうだけど、読了後はモチーフの絵画をもっと好きになる。どこまでが史実でどこからがフィクションかよく分からなくなる、その曖昧な心地よさも魅力だと思う。ゴッホにテオという弟がいたことは知っていたが、ここまでこの兄弟に深くのめり込むことになるとは思わなかった。あと十数ページで読了。みんなが幸せになってほしい。

 

〇音楽

・「HELP EVER HURT NEVER」(アルバム)藤井風

 「何なんw」藤井風

 今週は通勤中こればっかり聴いていた。藤井風さんは、このアルバムに収録されている「優しさ」はそれまでちょくちょく耳にして知っていた。それと「何なんw」はタイトルだけ知っていて、SORASHIGE BOOKでも紹介されていたようなので気になっていた。こういう時に定額の音楽配信は便利。ちょっとした好奇心をすぐに満たせる。そこで「HELP EVER HURT NEVER」を聴いてみた。

 「何なんw」は案の定私のどタイプの曲だった。ストリングスで始まったかと思えばバリバリのお洒落サウンド、からの「あんたのその歯にはさがった青さ粉に」の唐突感。何もかもが良い。Cメロの「裏切りのブルース」の後のなんて言ってるか文字で表現できないスキャット?的なあれも良い。やるせなさや虚しさ、軽い憤りをくだけた言葉で消化しようとしている感じもいい。こういう強がってる歌詞大好き。

 「死ぬのがいいわ」あたりも好き。行き過ぎた感情を感じさせる曲には非常に心を揺さぶられる。

 

〇ドラマ

【放送中】

・MIU404(第3話)

 星野源綾野剛のやつ。放送が決定された時からずっと見よう見ようと思っていたけれどなんだかんだで時期を逃し3話から視聴スタート。3話は高校の陸上部が廃止になって鬱屈した高校生が警察と鬼ごっこするために虚偽通報を繰り返す話だった。大人には間違った道に進む子どもたちを進むべき道に向き直してあげる義務がある。確保されて家裁送りになって、彼らが適切な叱責や許しを得て更生できればいいなと思う。それからネット死刑の問題。これも最近話題にしてる作品が多い気がする。赤の他人がまるで娯楽みたいにどこかの事件を消費してるのはなんか嫌なものがある。事情もよく知らない他人を叩くぐらいなら、美味しいもの食べたり面白いマンガ読んだりして発散したほうがよっぽど健康的だと思う。まあ司法がちゃんと判断して裁いてくれることが大前提なんだけど。それからマネージャーの女の子も、誘拐されて心の傷が極力残らずに生きていければいいのだけれど。何もなくてよかったとかじゃない。犯人も結果的に発見を遅らせた少年らもしっかり反省してほしい。岡崎体育はめちゃくちゃはまり役だった。キャスティングの妙。

 

・私の家政夫ナギサさん(第1話)

 私が好きなタイプの働く女性ドラマ。「仕事のできる女になってほしい」という母からの期待を一身に背負うMR(医薬情報担当者。製薬会社の営業担当とのこと)であるメイの家にひょんなことから家政夫が派遣される話。

 同業他社に案件を持ってかれそうになって焦り、徹夜で勉強して医師へのプレゼンに挑むものの、その前に制され他者との契約を決めたことを告げられる。あのシーンは社会人としてはつらいものがあった。頑張ってあれこれ働いて、結局その努力の方向がそもそも間違っていたと分かった時の虚しさ情けなさを思うと苦しくなる。相手方の医師が他者に決めた理由の真っ当さと、メイに対する真摯さ・否定しまいとする優しさがまたキツい。そのまま同行した部下を先に帰らせ自分は早帰りして家で飲酒に走る、みたいな時の気持ちは働き人なら誰もが共感したんではないかと思う。あるよね、そういう時。

 そんな弱ってるときに、あって3日そこそこの家政夫であろうが何だろうが頑張りを肯定してくれる人がいたらどんなにいいだろうと思う。私の家にも来てほしい、ナギサさん。反射的にとりあえず慰めの言葉を掛けるんではなくて、寝食を惜しんで勉強して努力していることをしっかり分かった上で言ってくれてるのが良い。頑張ったことを「頑張ったね」って言ってもらえるのって、本当に嬉しいことだ。

 

【過去作品】

過保護のカホコ

 最近色々と悩みというか考えごとが多くて、そんな時にふともう一度見たくなった。リアルタイムで見ていた時から、このドラマは自分に重なるところが多くて刺さる作品だなあと思っていた。

 主人公のカホコ程ではないにせよ、私も幼い頃からまあまあ過保護に育てられた自覚はある。そんなわけで、ドラマの中でカホコが己の世間知らずさや甘さを痛感して凹んでいる度に、何故か私までいたたまれない気持ちになる。それでもカホコはしっかり前を向いて、自立しようと必死にもがいている。そんな姿を見ていると、私も頑張らなきゃなあと思えるんだよな。
 
 
 久し振りに読もうと『星の王子さま』を引っ張り出した。今週はこれを読んでいこうと思う。
 ドラマに関してはMIU404とナギサさん、それに1話から見てるハケンの品格はとりあえず継続で見るつもり。
 今週も良い出会いがありますように。

物語の世界に没入する瞬間がある

先週頼まれていた仕事が片付いて手持無沙汰になったので、特に用事もないのに明日は有休を取得した。休日前の夜はとても好きだ。夜更かしして、あのドラマを見ようか、あの本を読もうかと思いを巡らせる。

新卒で入社して今年で3年目になるが、有休を取得するときは未だにほんのりと罪悪感を持ってしまう。今は仕事も落ち着いているし、休むことには何の問題もないはずなのだが、どうしても他の人への申し訳なさを感じてしまうのをどうにかしたいものだ。休めるうちに休んどきゃいいんだ。

本を読むのが好きだ。読むのはもっぱら小説ばかり。

小説を読んでいると、どこかのタイミングがきっかけになって物語の中に没入していくのを感じる。電車に乗って、本を開く。はじめのうちは、その日職場であったことやその時イヤホンで聴いている音楽の歌詞が頭の中で渦巻いて、なかなか文章が入って来ない。しかし、それを振り払いながらページと向き合っているうちに、いつの間にか私は本の世界の中にいる。どこかに、私を取り巻く空気が現実から虚構に変わる瞬間があったのだ。そのポイントを境に、私は不確かな物語の世界へとはまり込んでいく。現実の悲しみや気怠さや憤りから離れて、そこにしかない風景の中へ私が溶けていく。そこは、大都会の雑踏の中だったり、異国のビーチだったり、地球を遠く離れたどこかの星の上だったりする。私の知らない、私を知る人の一人もいない世界へ、本は私を誘う。

それだから私は、小説が好きなのだ。現実の世界でどんなに嫌なことがあっても、物語の世界はそこで、変わらない姿で私を迎え入れてくれる。物語の世界に溶ける私は、溶けながらもどこか俯瞰した目でその世界を見つめている。現実の世界の記憶を宿した私が、現実を忘れてそこにいることを自覚しながら、私がいないはずの世界を眺めている。部外者の私は、部外者ながらも共感し、不満を抱き、そこにいる人々とともに笑い、涙する。

現実の私に何が起ころうと、その世界で起きる物事は変わらない。だから私は安心してその世界に身を委ねることができる。

何かに疲れた時は、私ではない誰かが作ったものに触れる。それは小説だったり、音楽だったり、映画だったり、様々だ。誰かが作った何か、その他人事感が、私にとってはこれ以上ないほどに救いになる。

この星にいる誰かが紡ぐ物語に、物語を紡ぐ誰かに、私は心からの感謝を示さなければならない。それらが、彼らが、私のこれまでの人生を支えてくれた。欲を言えば私も、誰かを救う物語を作る側に回れたらと思うけれど、それはこの先の流れに任せることにする。

休日の前の夜なので、調子に乗ってお酒を飲んでいる。帰りに成城石井に寄って白ワインを買ってきた。赤ワインは悪酔いするので、自分で買うなら白と決めている。学生時代の貧乏生活に慣れてしまったせいで、社会人になってある程度の収入を得た今でも、なるべく安いものをと思いながら買い物してしまう。人と飲むならまだしも、自分一人で飲むワインに1本1,200円以上はかけられない。私の家族は基本的にワインを飲まない。学生の頃に友人の見よう見まねで飲んで初めて、ワインの手軽さを知った。それまではワインなどブルジョワの飲むものだと思っていた。学生時代にはかっこよさを求めてワインを飲んでいた私だが、今では糖質の低さを求めてそれを飲んでいる。ワインとウイスキーなら好き勝手に飲んでいいことにしている。私も歳をとったものだ。

その一方で、食べる量が最近は圧倒的に減った。小学校高学年から中学校の頃は私も食欲が旺盛で、家族で食事に行くたびに「残飯処理係」と呼ばれていたものだが、最近では一転して極端に少食になってしまった。外食をしてパスタや丼ものを単品で注文しても、一人前を食べきれないことが半分以上だ。20代半ばにして早くも消化機能の衰えを強く感じている。今日もワインのお供にと、コンビニでパストラミビーフを買ったものの、1パックの半分も食べきらないうちに満腹を感じてきている。ダイエットや節約の視点で見ればこれは非常にいいことなのだが、旅行先で食べ歩きをしたいときなどにこれは厄介である。旅行の時は特別に胃の容量をいつもの3倍にできる、みたいなオプションが人体に備わっていればいいのに、と思う。1回につき500円ぐらいなら払うかもしれない。

特にやることもなく、急ぎの仕事がないという理由で有休を取得してしまったせいで、明日の予定が白紙である。洗濯物を干すのと妹をバイト先に車で送る以外に本当にやることがない。しかし、秋ごろからの繁忙期に入ればそんなことはとても言っていられない状況になるだろうから、予定が真っ白なこの状況はとても貴重だ。明日は暇を楽しむこととする。

将来に進むのが怖い

今度、恋人が私の家族に挨拶に来る。

家族と恋人が顔を合わせることは初めてなので、なんだかすごく緊張する。一番緊張するのは私ではなく恋人なんだろうが、私だって緊張するのだ。

父にはこれまで恋人の存在すら話していなかった。私の外泊の頻度や態度から、なんとなく察してはいたのだと思うが、言葉で明示するのはこれが初めてだ。母から父に「カヲルの彼氏が挨拶に来たいんだって」と伝えてもらった。父は「えっ、うん」と言った。私が聞いたのはその一言だけ。父はどう思っているんだろう。

将来に向かって道ができていく。これからしばらくしたら、私と恋人は一緒に暮らし始めて、結婚して、子どもができたりするんだろう。彼の転勤に合わせて引っ越したり、ひょっとしたら海外に住む機会もあるのかもしれない。こうやって先が見えていくのは、キラキラして見えるけど、怖くもある。人生が大きく変わる、そんな時期に私は足を踏み入れているのだとここ数日で実感している。怖い。生活が、日常が、見える世界が変わるのが、怖い。朝起きて、動画を見ながら身支度をして、朝食を食べて、電車に揺られて職場に向かい、仕事をして、また電車に乗って帰宅し、ゲームをして、本を読んで、お風呂に入って寝る。いつまでもそこにあると思っていた日常が、実はあと数か月しか残っていないことに、最近になってやっと気が付いた。週5日働いて、土日は恋人と会って、母と買い物に出掛けて、家族のいる家でお酒を飲みながらご飯を食べて、新しい週を迎えていた。そんな週末の過ごし方も、ひょっとして、あと数回分しか残っていないんじゃないか。

生活ががらりと変わっても、私のすべてがなくなってしまうわけではない。むしろ、そこには恋人との新生活が待っている。新しい部屋、新しい家具、二人の好きなものが半分ずつ混ざり合う空間。週に1度しか会えなかった恋人が、毎日家にいる。休日はお互いに好きなことをして、たまにじゃれ合って、一緒にご飯を食べたりお風呂に入ったりして過ごすのだろう。それはすごく楽しみだし、私もそんな生活を夢みて過ごしてきた。どこに部屋を借りようか、家具はどんな色のものにしようかと話すのは、とても楽しい。

でも、その裏で後ろめたさがよぎる。私が実家を出たら、私だけでなく、家族の生活も変わる。母が一人になってしまう気がする。しばらくは、私がいなくても妹がいる。でも、妹も就職のタイミングで間もなく家を出て一人暮らしをする。そしたら、母は?うちは、両親が必要最低限しか言葉を交わさない。いつからだったかは思い出せないが、両親はそういう関係になっていた。我が家は父の両親と同居している。居住スペースは別なので、あまり関わる機会がないとはいえ、娘二人がいない家に母が残ったら、きっと肩身が狭いのではないか。父と会話することもなく、母の話し相手はこの家にはいなくなってしまうかもしれない。

昨日の夜からずっと考えていても、どんどん分からなくなっていく。私は、自分が家族のもとを離れるのが寂しいのだろうか、それとも母を一人にするのが後ろめたいのだろうか。手放しで新生活に期待を膨らませることができない。どこかで、何に対してなのかもわからない申し訳なさが募る。

きっと、勢いのままに新しい環境に飛び込んでしまえば、何も思わなくなるのだと思う。私も、母も、恋人も、新しい生活に慣れていく。まるでずっとそうだったかのように、次の生活が当たり前のようになっていく。過去のことは良い思い出として、胸の中に仕舞われていく。懐かしい思い出。

色々なことが頭の中で交錯して、パンクしそうになる。恋人のこと、家族のこと、職場のこと、諸々の面倒な手続きのこと、今日の夕食のこと、昨日見たテレビのこと、好きな歌手の新曲のこと。自分にとって何が大切なのか、見失いそうになる。全部大切だし、全部どうでもいい。そんな感覚に沈みそうになる。

こんなにあれこれ考えてしまうのも、きっと低気圧のせいだということにして、今日も眠る。