暇すぎて好きな本を書き写し始めた

今日は祝日で仕事は休み。かといって外出自粛でやることもないので家に引きこもって過ごしている。もうかれこれ1か月近く、いわゆる「不要不急の外出」をしていない。はじめのうちは思うように遊びに行けないことに対してストレスを募らせていたが、最近では一周回って引きこもり生活が楽しくなってきた。思えばもともと私はひとりが好きな人間だった。家で好きなだけ趣味のゲームや読書やドラマ鑑賞に興じることができて、しかも誰にもそれを咎められない。世の中全体が家で過ごすことを推奨するムードなので、要らぬ罪悪感を抱くこともない。私は日本の明るい未来のために、全力を尽くして家でダラダラしているのだ。

さて、家で過ごす暇な時間が長くなってくると、何か真新しいことに手を出したくなる。正直、現状の趣味で手いっぱいで何かしらに夢中になっていたら気が付くと夜、という状況が続いているので新しいことを始める必要はないのだが、さすがに長く続く外出自粛生活に、身体が何らかの刺激を求め始めているのかもしれない。ちなみに今日は、Huluで「NYガールズ・ダイアリー 大胆不敵な私たち」を流し見しながらどうぶつの森でひたすら魚を釣りまくるという作業に一日の大半を費やした。

そういうわけで、今日は好きな本を書き写すという試みに挑戦してみた。一番の目的は暇つぶしである。もともとデータ入力のような単純作業はとても好きなので、多大な数の文字が印刷されている本を書き写すという作業は私にとって魅力的だ。好きな作家の本を選べば、その作家の文体を直接的に体感することもできて一石二鳥。読書好きの血が騒ぐ。

ということで例によって加藤シゲアキ著『できることならスティードで』のページを開く。パソコンを立ち上げて文書作成ソフトを開き、一本目のエッセイのタイトル「Trip0/キューバの黎明」から一文字一文字書いてある通りに打ち込んでいく。

作業を始めてみると、これが暇つぶしとしてはとても良い。無心で手を動かしていくのは私にとっては何の苦痛でもない。時折流れてくる雑念をうまくかわしたり、時に寄り添ったりしながら、時の流れに身を委ねる。

日本語能力も高まるように感じる。本を読んでいると、正確な意味は分からないけれど文脈で何となくの意味は分かる単語というのがよく出現する。普通に読むだけだとこういうものを分かったつもりになって読み飛ばしてしまうところが、複写作業にかかるといちいち漢字に変換するなどの作業を通すことで正しい意味を知りたくなって改めて調べてみたりするようになる。その他にも、今日の私で言うと「煽る」と「呷る」の違いとか、「鼻をかすめる」の「かすめる」は漢字でどう書くのか、なんていう日本語の知識が増えた。

それに加えて、これは読書好きにしか分からない良さかもしれないが、作家の文章表現に没入することができる。実際に本に書かれているのと同じ文章を複写していると、「うわ~この言い回し好きだわ~!」とか「ここをあえて変換しないでひらがなのままにしてるのロマンチックだな~」とか、そういった作家への愛が止まらなくなる。俗な表現で言うと、なんというか、手っ取り早く文章に酔える。

本の複写。暇でしょうがない人と浴びるように本を摂取したい人は、やってみるといいと思う。

そんなこんなで今日も一日が終わっていくのだけれど、さっき何となく自分のメモ帳をパラパラとめくっていた時に、ある一文が偶然目に留まった。そこには、「仕事を好きになりたい」と書いてあった。数週間の自分、なんてけなげなんだ。切実な仕事への思いを、そこにあったノートに何の気なしに書き記した過去の自分に、図らずもハッとさせられてしまった。大丈夫、今の私はあなたよりちょっとだけ仕事が好きになっています。なんなら未曽有の災禍が世界中を覆うことにより、色々あって職場に行く機会が減って会社で働けることがいかに恵まれたことなのかを噛み締めることになります。

未来なんてどうなるか分からなんだから、とりあえずその時々にやりたいと思ったことをやればいいんじゃないか。そんなところに落ち着いた昭和の日の夕暮れ時。